
生まれ方ではたぶん、奇妙日本一の、力太郎が子分を従えて、活躍するお話です。
誰が考えたのか?
身近にあったのが、それだけだったのか?
この力太郎のお話には、子分になる事の意味と、自分に対しての分析についての教訓がふくまれています。
ここからは、力太郎のあらすじです。
力太郎のあらすじ
むかし、とてもぶしょう者のおじいさんとおばあさんがいました。
ふたりは、いつもあかだらけだったのです。
2人は子供がいなかったので、あかを丸めて、人形を作ります。
そして、この人形は、まっくろですが、かわいい男の子に仕上がりました。
この人形は、ご飯を与えると、口を開いて食べたのです。
おじいさんと、おばあさんは、この子を力太郎と名付けました。
そして力太郎はご飯をたくさん食べて、本当の男の子になったのです。
そのうちに、力太郎は「力を試す旅に出るので、鉄の棒をつくってくれ。」と言います。
そして、鉄の棒を軽々と持ち、歩いて行くと、向こうから大きな御堂を担いだ男がやってきました。
力太郎が早く道を開けるように言うと、「おれは、日本一の力持ち、御堂っこたろうだぞ!」どなってきます。
すると、力太郎は、「日本一の力持ちはおいらだぞ!」と鉄の棒を振り落とします。
そうすると、御堂はバラバラにこわれ、勢いで松の木に引っかかった御堂っこ太郎を、力太郎は助けてやるのです。
すると、御堂っこ太郎は「おれをお供にしてくれないか。」と力太郎にいいました。
こうして、2人が少し行くと、今度は、岩山で、岩をげんこつでたたき割っている大きな男に出会います。
ふたりが近づくと、力太郎に岩のかけらが飛んできます。
「何をするんだ!」と力太郎が言うと、その大きな男は「おいらは、日本一の力持ち、いしこ太郎だぞ!」と言いました。
ですので、力太郎は、いしこ太郎を投げ飛ばし、その勢いで岩に埋まったいしこ太郎を助けます。
すると、いしこ太郎は「おいらをお供にしてくれないか。」というのです。
ですので、3人が歩いて行くとある村があり、村には誰一人歩いているものはおらず、屋敷の前で長者の娘が泣いていました。
そこで、力太郎は、娘に訳を聞いてみますと、「月に一度、怪物がやって来て、娘をひとりづつさらって行きます。」と言うのです。
これを聞いた力太郎は、「怪物をやっつけてやる。」と言います。
そして、しばらくすると、怪物がやってきました。
御堂っこ太郎と、いしこ太郎は怪物に「それっ!」と飛びかかりますが、怪物は、2人をつまみあげ、飲み込んでしまいました。
それを見た力太郎は、鉄の棒でかかっていきますが、怪物はびくともしないのです。
そこで、力太郎は、怪物のおなかをおもいっきりけとばしました。
すると、怪物は、御堂っこ太郎といしこ太郎を吐き出し、ばったりとたおれました。
そして、長者は、そのお礼に三人にお腹いっぱいご飯を食べさせてあげます。
長者は、力太郎たちを、大変気に入ったので、三人を自分の娘たちのむこに迎えることにしました。
やがて、おじいさんと、おばあさんもこの村に呼んで、いつまでも、幸せに暮らしたのです。
おしまい。
力太郎の教訓
教訓1
このお話の教訓は、人への評価はいつまでたっても自分の評価にはならないという事です。
人への評価を自分に投影して生きていても、それは、勘違いであるということなのです。
自分より強い人、頭のいい人、権力のある人に、ついてまわると何かいいことがあるのでしょうか?
このお話では、ちからたろうに負けた御堂っこ太郎と、いしこ太郎は、子分にしてくれといいます。
むかしから、子分、腰ぎんちゃくという存在はよくみられます。
最近のお話でも、子分スタイルは多いのです。
有名なお話では、アニメ『ドラえもん』のジャイアンについて回るスネ夫がいます。
いつも、ジャイアンと一緒にいるのですが、ジャイアンがスネ夫に一方的に、えらそうにするだけで、スネ夫に何かいいことがあるようには見えません。
でも、実は集団のなかにいて、強い物の後ろにいると、自分はいじめられにくいのです。
周りの人は、ジャイアンと一緒にいるスネ夫の事をいじめたりすると、ジャイアンにひどい目にあわされると、勘違いしてしまいます。
実際には、強いわけではないのですが、強い人と、同等の扱いを受ける事ができるのです。
他には、例えば、頭のいい人の後ろについて、その人の意見にそうだそうだと言うだけで、自分はあまり何も考えないで、頭のいい人と同じような考えをもっていると、周りから思われます。
前に立つ人への評価を、自分への評価と思わせていますので、後ろについている人は安心感があり、何も考えなくていいので、とても楽なのです。
その前に立つ人への評価を、自分にも投影して、自分も強くなったり、頭が良くなったりしたような、気になっているのでしょう。
そういう人に限って、本人に特に深い考えはなく、例えば、クラスにジャイアンより強い人が現れると、さっさと、そちらに乗り換え、その人の後ろについたりする事があります。
しかし、そういう人は、ひとりになると、何も決められず、何も出来ないことが多いのです。
例えば、連れて歩く恋人の、見た目ばかり気にする人がいます。
自分の選択に自信がなく、恋人として、特にこだわりがないので、人が見て、一般的にきれいな人を連れて歩く事で、自分の選択に自信がないのを、ごまかしているのです。
綺麗な人を選ぶ一般的な評価を利用して、自分の趣味も一般的なように、装います。
そして、特にその人の事が好きではない事もあるのです。
ですから、たまに男の人が言う、一緒にいるけれども、「好きかどうかわからない。」という事が言えます。
自分ではない人への評価を自分の評価だと勘違いしている人は、今は楽でいいですが、ひとりになった時に、自分が何も中身がなかったことに気がつくのです。
教訓2
そして、もうひとつの教訓は、時には、広い範囲で自分を分析することは大切であるということです。
力太郎と、御堂っこ太郎と、いしこ太郎は自分が日本一だと言っています。
この三人は、どうして、自分が一番だと言えたのでしょうか?
生まれてから、親にも大事にされて、周りの者にも一番だと言われて育ってきたのです。
自分の周りの狭い世界で一番だと思って生きてきたからではないでしょうか?
例えば、私の知り合いの方のお孫さんは、小さいときから絵が得意でした。
おじいちゃんもおばあちゃんも、そのことをとても褒めて育てます。
でも、実際、大きくなって、絵の学校に行ってみると、お孫さんは「自分と同じ位絵が上手な人はたくさんいて、私は絵の仕事では生きていけそうにない。」というのです。
そして、そのお孫さんは、違う方向から絵を描く人に関われる部門に転向して、勉強しています。
人は社会に出て、はじめて自分が一番ではない事に気がつき、はじめて挫折を味わう事があるのです。
そして、そこで落ち込んで、立ち直れなくなるか、そこから、どうして一番になれなかったのか、分析して、又努力をし続けるかで、本当の実力になるかどうかが分かれます。
自分の周りだけではなく、広い範囲で自分を見る事は、時には自分の本当の力を知る手段にもなるのです。
力太郎の原作
あかから生まれた、あか太郎や、こんび太郎と言われることもあります。
そして、大きく成長してから、力太郎になるというお話もあるのです。
日本の東北地方につたわるお話です。
冒頭におじいさんと、おばあさんが入浴し、あかで人形を作る事を思いつくシーンがあるお話もあります。
まとめ
このお話の教訓は、人への評価を自分に投影して生きていても、それは、勘違いであるということです。
そして、時には、広い範囲で自分を分析することは大事であるということです。
本当に好きなものがわからなかった子供の頃は、姉の好きだという物を、まねしたりしていたのです。
でも、本当に好きなことがみつかると、それがどんなに意味がない事だったか、わかりました。