
少しくらいいいじゃないか。
これはみんなが持っている感情です。
でもそれは、犯罪の第一歩になる事かもしれません。
そして、この『くわばらくわばら』のお話しには、力のある人にこそ必要なルールに対する考え方がふくまれているのです。
それでは、『くわばらくわばら』のあらすじからみていきます。
くわばらくわばらのあらすじ
あるところに、息子とお母さんが住んでいました。
ある日、お母さんは息子に、なすのなえを買ってくるように頼むと、息子は100文もする苗をいっぽんだけ買ってきました。
でも、息子は「この苗は、一本でも百も千も実がなるから。」と言うのです。
そして、息子は苗を植えて、毎日大事に世話をしました。
すると、苗はどんどん大きくなり、とうとう天まで届いてしまいました。
それから、なすの木はたくさんの実をつけたのです。
七月七日に、お母さんは、「なすでもとって、七夕様にお供えしよう。」と言います。
そして、息子はどんどん登っていくうちに、雲の上まで来てしまいました。
すると、おおきな御殿が立っていて、白いひげのおじいさんが、座っています。
そして、息子は「おらの家のなすが、ここまでのびてしまったもので、実をもいでいいかね?」とたずねます。
すると、おじいさんはにこにこして、「このなすの木は、お前さんとこのものか?そのなすは、毎日いただいている。せっかくきたんだから、ゆっくりしていきなさい」と答えます。
ですので、息子が座敷にあがると、ふたりのきれいな娘があらわれ、たくさんごちそうを出してくれました。
昼になると、おじいさんは、いいます。
「娘たち、さあしたくをしなさい。」
そして、立ち上がり、奥の部屋に入っていきました。
しばらくして、出てきたのは、はだかにトラの皮のふんどしをつけ、頭には二本の角をつけたおそろしい鬼ではありませんか。
息子はびっくりして、腰をぬかしました。
おにはいいます。
「わしは雷神じゃ。かみなりさんじゃ。これから、下界に雨をふらすんじゃ。」
「おまえさんも手伝ってくれんかい?」
娘たちにもすすめられたので、息子はその気になりました。
「おまえさんの仕事は、雨をふらすことじゃ。このとっくりをかたむければいい。」
「よしきた。」
いざ、雷神は太鼓をかついで、雲をおこすと、娘たちは鏡をもって、おどりだし、雷をおとします。
息子はとっくりをかついで雲をかけまわり、あっちこっちに雨をふらせました。
下界では、七夕祭りのさいちゅうで、見えるのは、みんな息子の知り合いや、友達でした。
「これは、ひとつ、からかってやろう。」
そこで、四人は今までよりも気合をいれて暴れます。
さて、村のみんなは大騒ぎで、クモの子をちらすように、みんな逃げていきました。
息子と娘たちは楽しくておおわらいします。
そして、息子は、わらいころげているうちに、雲を踏み外して、真っ逆さまにおちてしまいました。
危ない所で、くわの木にひっかかって、なんとか助かったのです。
それを、天から見ていた娘たちは、泣いて残念がりました。
そこで、雷神は娘の気持ちを思って、「わしは、これからは、くわの木には落ちないことにしよう。」といいます。
それで、いまでも、かみなりがなると、くわの枝を軒下にさしたり、「くわばら、くわばら」ととなえるのだそうです。
おしまい。
くわばらくわばらの教訓
このお話の教訓は、力のある人こそ、謙虚にルールに従って仕事をしなければならないという事です。
人は自分の思い通りになる事は、自分の利益になるようにルールを変えてしまう事もあります。
このお話の中では、息子は自分が雨をコントロールできる立場になって、つい調子に乗ってしまいました。
そして、自分の村の人をからかって、雨をふらせて面白がるのです。
例えば、その国の力のある方々が、自分の都合のいいように出来るからと言って、勝手にルールを変えたりしてしまえば、利益は偏り、大変住みにくい国になってしまうかもしれません。
例えば、会社でも、適正に運営されているかどうか、外部の人がきちんと確認する機会を設けておくことが大事です。
そうしないと、いつの間にか知らないうちに、力のある人だけに利益がある組織になっているかもしれません。
そして、もしかして、不正が、その会社の当たり前になってしまっているかも知れないのです。
例えば、毎日毎日、会社に行って、上司のいう事を聞いて、真面目に仕事をしていました。
でも、実は自分が毎日犯罪に加担させられていたとしたらどうでしょう。
組織というのは、上の人のいう事を聞くことが当たり前です。
だからこそ、そういう恐ろしい事がおこる可能性があるのです。
ですので、どんなちいさな会社でも、きちんと運営されているかどうか、見極める機会がないといけません。
そして、これは、犯罪の第一歩になっていると思うのですが、人というのは、少しぐらい大丈夫とか、これぐらいはわからないだろうという考えで、どんどん調子に乗り、その度合いが増してきて、あとから気づいてみると、自分ではどうしようもなくなっていることがあります。
その、最初の線引きは、少しぐらいを超える前にあると思うのですが、その時は、そこまで重要に感じないので、なんとなく見過ごしてしまいます。
例えば、工場で、機械の清掃を、一日二回行わなければならないというルールだったとします。
でも、人手不足で、一日一回でいいのではないかという事になります。
それでも、何の問題もないので、しばらくは大丈夫なのです。
そして、新しい上司がやってきて、何もわからないので、工場で働いている人に聞きます。
そうすると、今のところ、一日一回で問題がないとわかるのです。
その上司は、工場の効率化と人件費削減のために、機械の清掃はとりあえず、二日に一回でいいのではないかと思ってしまうのです。
そして、事故が起こります。
小さな事例でも、似た事はどこにでもあると思います。
少しぐらい、これぐらいと思った時はその線を超える前にもう一度考え直すことが必要です。
くわばらくわばらの原作
くわばらくわばらの語源としては、かみなりさんが落ちてきて、井戸にふたをされ、閉じ込められ、そこの地名がくわばらで、二度とそこには落ちない。と言った事などがあります。
自分に災難が降りかからないようにするおまじないとして、使われます。
場所は、兵庫県三田市であったり、大阪府和泉市であったり、京都という説もあります。
まとめ
このお話の教訓は、力のある人こそ、謙虚にルールに従って仕事をしなければならないという事です。
そして、犯罪の第一歩になる、少しぐらい、これぐらいの最初の線を超える前にもう一度、考えましょうという事です。
普段の生活では、考え方として、少しくらい、これくらいが必要なことがあるのですが・・・
特に子育ては、安全にかかわる事以外では、気持ちの余裕として、少しくらいという妥協は、必要な気がします。