
人は、ひとりで生きて行くことは困難です。
ひとりでいいと思っていても、生活や、食べる事や、働く事で、誰かとかかわらなければなりません。
そして、社会の中で大きい場合も小さい場合も起こり得るのが、いじめです。
誰も、そんなことを望んでいないのに、なぜいじめは起こるのでしょうか?
この『因幡の白兎』のお話しは、むかしからある、いじめについて、書かれています。
それでは、ここからは『因幡の白兎』のあらすじをみていきましょう。
因幡の白兎のあらすじ
これは、やまたのおろちを退治した、出雲の国の神の子孫のおはなしです。
オオナムヂにはたくさんの兄神がいました。
兄神たちは、いつもオオナムヂに意地悪だったのです。
その兄神たちは、稲羽の国のお姫さまのうわさを耳にします。
そのお姫さま=ヤガミヒメは大変美しく、兄神はみんな自分が一番おむこさんにふさわしいと思ったのです。
それで、ヤガミヒメに会いに行くことにしました。
この時も兄神たちは、荷物をぜんぶオオナムヂに持たせて、家来として連れていくのです。
旅の途中で、兄神たちは、一匹のうさぎをみつけます。
そのうさぎは、皮をむかれて、あかはだかになって、倒れていました。
兄神たちは、そのうさぎに、「海水をあびて、風の当たる所でねていると、いいよ。」といいます。
けれども、うさぎがその通りにすると、海のみずがかわくと、体中の肌がさけて、血がにじんできたのです。
そして、いたくて、たまりません。
うさぎがまた泣いていると、そこに遅れてやってきた、オオナムヂが通りかかります。
うさぎに気がついたオオナムヂは、かわいそうに思って、泣いている理由を聞きます。
うさぎは泣きながら、話しました。
「私は島にひとりですんでいました。さめをみさきまで並ばせて、その上をとんで渡る方法を思いつきました。」
「さめを呼び、うさぎとさめのどっちが数が多いか、くらべっこをしようと持ちかけました。」
「そして、みさきが目の前にきて安心して、さめにだました事を言ってしまったのです。」
「そのとたん、さいごのさめが私をつかまえて、毛皮をはいでしまったのです。」
「だから、辛くて泣いていると、通りかかった、大勢の神様が、海水であらって、風に当たれと言ったのです」
「そうすると、体がさけ、まえよりもっと辛くなってしまいました。」
うさぎの話を聞いて、気の毒に思ったオオナムジは、言います。
「河口へいって、真水で洗い、それから、岸辺に生えているガマの穂の花粉を集めて、そこに寝転がってごらん。」
ですので、うさぎはオオナムヂが言った通りにすると、真っ白な毛がはえてきて、もとの姿に戻ったのです。
白うさぎはよろこんで、オオナムヂにお礼の代わりにいいます。
「さきほどの、兄神たちは、誰もヤガミヒメに選んでんもらえないでしょう。ヤガミヒメはきっと、あなたを選ぶことでしょう。」
このうさぎは予言できるうさぎでした。
さて、大勢の兄神はヤガミヒメに順番に結婚を申し込んでいました。
しかし、ヤガミヒメは戸をかたく閉じて、一度もでてきません。
やっと、オオナムヂがたどりつくと、ヤガミヒメがその美しい姿を見せて言ったのです。
「わたしは、兄神たちのいう事はききたくありません。私が好きなのは、オオナムヂです。」
そして、オオナムヂだけを招きいれました。
因幡の白兎の教訓
このお話の教訓は、いじめはむかしからありますが、周りの人に自分の事を認めてほしいという考えからおこる行為であるという事です。
このお話の中では、兄神たちが、オオナムヂをいつもいじめ、自分たちの荷物を持たせます。
これは、小学生が帰宅時に、いじめる対象の人ににランドセルをもたせるのとそっくりです。
単純に自分が楽をしたいという考えからですが、相手が重くて苦しむのをみるのが楽しいのです。
この考え方は、いじめる対象のひとからお金をまきあげるなども同じです。
単純に、暴力をふるうというのも、直接的に弱い者にいう事をきかせて、ストレスを発散するのです。
このお話の中でも、兄神たちは、うさぎがもっと痛い思いをするのをわかっていて、海水で洗うように言います。
暴力もそうですが、自分が同じ事をされたら、どんなに痛いかを想像できる人はそんな事は絶対に出来ないはずです。
痛い思いをしたことがなくて、想像できないか、相当の悪意があるか、しか考えられません。
人を故意に傷つける事は、どんな理由があっても、許される事ではありません。
そして、兄神たちは、集団でオオナムヂをいじめています。
集団でいじめる事は、本当に幼く、単純で恥ずかしいことです。
そして、まちがっているとわかっていても、そのことを口に出せず、仕方なくいじめに加担してしまうこともあったでしょう。
ここで、オオナムヂをかばってしまうと、今度は自分がいじめられるという心配もあるのでしょうか?
そして、いじめる人は、いじめられる人より社会的に優位に立ちたいと思っています。
いじめて、相手を自分の思い通りにさせることで、自分は相手よりも優位にたっていると感じる事ができます。
周りに自分を認めてほしいという欲求がそういう行為に走らせるのです。
自分をみとめて欲しいという欲求はだれでもあります。
けれども、基本的に自分は存在しているだけで価値があるという事をわかっていれば、いじめなどする必要がないのです。
人は他のだれとも比べる事ができず、存在するだけで価値があります。
それから、相手が自分より優れていそうだと危機感を感じた時にも、相手を社会的におとしめる為にいじめをすることがあります。
そして、このお話では、兄神たちは、オオナムヂの頭がいいことに危機感を感じて、成長しないように押さえつけているのでしょう。
ですが、最後には、ヤガミヒメはオオナムヂを選ぶのです。
このことで、兄神たちは嫉妬や、ばかにされたと感じて、怒り、オオナムヂを殺そうとします。
気をつけなければいけないのは、ばかにされたと思う事は、このあと、兄神たちがしたように、究極の悪意に発展することがあるということです。
最近は、ばかにされたという理由で、起こる残念な事件が時々あります。
しかし、ここで、考えられる事は、ヤガミヒメが選んだのが、オオナムヂではなく、兄神たちの誰かだったとしたら、他の兄神たちは、どうしたのでしょうか?
同じように怒り、この選ばれた人を憎んで、オオナムヂにしたことと、同じ事をしようとするのではないでしょうか?
そう考えただけで、この兄神たちは、集団でいじめをしているにもかかわらず、結局は自分のことしか考えていないのです。
このことだけでも、集団でいじめることが、なんの目的ももたず、意味のない行為だということがわかります。
そして、いじめは昔からあるのです。
例えば、日本は昔から、国が身分制度を作っていました。
この事も、いじめと変わりなく、自分が誰かより優位に立ちたいという考えをもった人が作ったのでしょう。
それだけ、誰かより優位に立ちたい、自分をみとめてほしいという欲求は、人間の感情の深いところに関わっているのです。
因幡の白兎の原作
日本につたわる神話、『古事記』にのっている「稲羽の素兎」の事だと言われている。
やまたのおろちを退治したスサノオの子孫のオオクニヌシのお話しで、オオクニヌシは若いころオオナムヂと呼ばれていた。
このお話のあと、オオナムヂは兄神たちに大変憎まれて、兄神たちはオオナムヂを殺す計画をたて、実行する。
まとめ
この『因幡の白兎』の教訓は、いじめは周りの人に自分の事を認めてほしいという考えからおこる行為であるという事で、自分の事しか考えていない、意味のない事であるということです。
子供の時に、親から自分はなにもしなくても、存在を認められていると感じながら成長することは大事な事だと思います。