
動物たちは、話すことができません。
でも、沢山のすごい能力をもっています。
実は、賢く発達しすぎた人間は、生き残れないのではないかと思っています。
代わりに素朴な、動物が生き残るのではないかと・・・
ゴキブリと言う人もいますが。
それだけ、人間は進化しているようで、実は、生きる力が低くなっているのではないかと思ったりしています。
この『スーホの白い馬』は動物のまっすぐな思いが伝わるおはなしです。
そして、動物の賢さを、教えてくれるお話です。
では、あらすじからみていきます。
スーホの白い馬のあらすじ
出会い
このお話は、モンゴルの馬頭琴という楽器の由来のお話です。
むかし、モンゴルに、おばあさんと2人で暮らしているスーホという羊飼いの少年がいました。
ある日、スーホは帰りに白くて小さな子馬をみつけました。
スーホは、地面で歩けなくなっていた子馬を、抱きかかえてかえってきたのでした。
そして、スーホは心をこめて子馬の世話をして、立派な馬に育ちました。
スーホの馬は、真っ白で、誰もが見とれるほど美しかったのです。
ある夜、スーホは、馬の鳴き声と、ひつじのさわぎ声で目が覚めます。
おおかみが、ひつじに飛びかかろうとしていたのを、白い馬が必死に立ちはだかって、防いでいました。
スーホは、白い馬をなでながら、「ひつじを助けてくれて、ほんとうにありがとう。」と伝えました。
奪われた白い馬
そして、ある年の春、とのさまが町でけいばの大会を開いて、一等の者には娘と結婚させるという知らせが伝わってきます。
スーホは、仲間の羊飼いに進められて、町のけいばに出る事にしました。
そして、スーホの白い馬が一等になりました。
しかし、とのさまは、一等になったのが、貧しいひつじかいだと知ると、娘と結婚させることなど、知らないふりをします。
それどころか、銀貨を三枚やるから、白い馬を置いて帰れといい、スーホが断ると、家来たちは、スーホをなぐったり、けとばしたりしました。
そして、とのさまは、白い馬を連れていってしまいました。
友達が、スーホを家に連れて帰ってくれたので、死なずにすみます。
傷はやがて、良くなってきましたが、白い馬を奪われた悲しみは、どうしても消えなかったのです。
白い馬の一途な気持ち
さて、白い馬のお披露目の席で、とのさまが馬にまたがると、白い馬はものすごい勢いではねたのです。
それから、転げ落ちたとのさまは、逃げ出した白い馬を「弓で殺してしまえ!」と大声でどなります。
たくさんの矢が、白い馬の背中にささりますが、白い馬は、止まらずに走り続けました。
その晩、外で物音がしたので、様子を見に行ったおばあさんが、「白い馬だ!」と叫び声をあげました。
スーホは、はね起きて、行ってみると、そこにはほんとうに白い馬がいたのです。
けれども、その体には矢が何本も刺さって、汗が滝のように流れていました。
そして、ひどい傷を負いながら、大好きなスーホに会うために走ってきたのです。
スーホは、馬にささっている矢を、抜いてやります。
白い馬は弱り果てていました。
いきは、だんだんと細く小さくなり、次の日、白い馬は死んでしまいました。
スーホは悲しくて、くやしくて何日も眠る事ができません。
そして、やっと少し眠りに落ちた時に、白い馬の夢をみました。
白い馬はスーホに近づいてきて、体をすりよせました。
スーホは白い馬をなでてやりました。
そして、白い馬はスーホに話しかけました。
「そんなに悲しまないでください。私の体を使って、楽器をつくってください。」
「そうすれば、私は毎日、いつまでもあなたといっしょにいられます。」
そして、スーホは白い馬が言っていた通りに、楽器をつくりました。
これが、馬頭琴です。
スーホは、それを弾くたびに、白い馬といっしょにいるような気持になります。
それに、聞く人みんなは、こころをゆりうごかされるのでした。
おしまい。
スーホの白い馬の教訓
このお話の教訓は、話せることの意味は何か?という事です。
人間だけが、コミュニケションの手段として、話すことができます。
しかし、動物たちは、話すことができません。
でも、人間とは違う形でコミニュケーションをとり、自分の生きる意味も何をすべきかもわかっているように見えます。
このお話の中では、白い馬は、おおかみから、ひつじたちを守ります。
そして、離れ離れになってしまったスーホに会いたくて、とのさまを拒否し、逃げます。
その時に、背中に矢がささり、大変なけがをしますが、それでも走り続けて、スーホに会いにいくのです。
スーホが大好きで、一緒にいたいのです。
そのためなら、自分は死ぬかもしれない事など考えないのです。
何もしゃべりませんが、大切な人への想いが、人間には出来そうにない位、まっすぐで、正直です。
死んでしまってからも、枕元に立ち、「悲しまないでください」といって飼い主をなぐさめます。
自分の事など、どうなってもいいくらいに、大切な人の事を想っているのです。
先日のことですが、私の友達が、20年も一緒にいた、ネコを亡くしました。
何年か前は、調子が悪いと言っては、夜中にニャーニャー鳴いて、飼い主を起こしに来ると言っていたのです。
でも、今回はだんだんと食べられなくなって、水とトイレに動くだけで、辛い様子はなかったようです。
そして、最後には、飼い主の所に寄って来て、静かになくなったそうです。
私はこの事を友達に聞いた時に、おもいました。
人間は話ができて、頭が良くて動物より賢いと思っているのは間違いじゃないかと。
動物は静かに自分の運命を受け入れて、亡くなっていくのです。
運命を受け入れた途端、なんと潔いのだろうと。
動物達は自然に生まれて、あるがままに生きて、やがて、死んでいくのです。
動物は何も言わないけれど、きちんと何でもわかっています。
実は、うまれたときから、何もかも、見通しているのではないでしょうか。
人間は頭が良く、色々な事を考えますし、知っています。
そして、話せることで、他人とコミニュケーションを取ったり、話合ったり、気持ちを伝えたりします。
でも、良い事ばかりではなく、愚痴をいったり、満足できずに文句を言ったり、時には、人にひどい事を言ったりもします。
何のための言葉でしょう。
そんなつまらない事のために、言葉を使わず、せっかく与えられた伝える手段を、もっと良い事に使わなければいけません。
時には、人は、言葉に頼りすぎて、相手が何を感じているかみようとしなかったり、言葉で発していることが、その人の考えている事全部だと勘違いすることが、あります。
そして、人間も、もともとは動物なのに、動物らしい、本来持っている勘のようなものが、だんだんと働かなくなっているように思います。
人は、なんのために、話せるように進化したのか、話せることの意味をもう一度、考えるべきかもしれません。
スーホの白い馬の原作
日本人が、中国語のテキストから探して、書きだしたお話。
そのため、日本では、モンゴルの民話として知られていますが、実際にはモンゴルでは知らない人がたくさんいるようです。
小学校の教科書に採用され、子供にも親しまれている。
まとめ
この『スーホの白い馬』の教訓は、人間が話せる事の意味とは何か?です。
人は話が出来る事で、言葉に頼りすぎているのではないか?という事です。
私はどちらかというと、口に出すのが邪魔臭い人です。
いつも余計なことはいうのに、肝心な事を口に出さないといって、怒られます。
私ももう一度話せることの意味を考えなければなりません。