
あなたの中に鬼はいますか?
と聞かれて はい。と答える人はいないと思います。
でも実はあなたの心の中にも鬼がいるかもしれないのです。
もしかしたら、あなたの心がどんどんと鬼に食べられているかもしれないのです。
このお話の中の鬼は本当はどんな鬼だったのでしょうか?
さて、ここからは、羅生門の鬼のあらすじを見ていきます。
羅生門の鬼のあらすじ
むかし、京都に羅生門という門が立っていた。
そのころ、羅生門には鬼がいて、その鬼は人をおそって食べてしまうといううわさがあったのです。
ですので、羅生門にはだれも近づきません。
このうわさを聞いた渡辺綱というお侍が「私が羅生門の鬼とやらを成敗してくれよう。」とたった一人でやって来たのです。
渡辺綱というお侍は大江山の鬼退治で知られる人物です。
辺りにはだれもいません。
綱はしばらくの間羅生門を見上げていましたが、鬼など出てくる気配もしませんでした。
綱は「鬼もわしが怖いとみえるわ。」と引き返そうとします。
すると、女の「もし、もし。」と言う声がするので振り返って見てみると、門のかげに若くて美しい女が立っていたのです。
女は「使いの帰り道、ここまで来ると日がくれてしまいました。この辺りには鬼が住み着いているとか。怖くて動けません。どうか家まで送ってください。」と言います。
綱は「それはお困りだろう。良かったらわしの馬に乗りなさい。」と女を馬に乗せようとしました。
すると突然女は恐ろしい鬼の姿に変わり、綱の首を抱えて空へ上がろうとしたのです。
綱はなんとか鬼の手を振りほどこうとします。
ですが鬼は、笑いながら更に上へ上へと登っていくのです。
綱は息苦しさに耐えながら、腰の刀を抜き鬼の手を切り落としました。
鬼は「ぎゃおう!」と叫び声をあげます。
そして「よくも腕を切り落としたな。七日のうちに必ず取り戻してやる。」と消えてしまいます。
綱が鬼の腕を拾い上げると、それは鉄のようにかたくて、爪は鋼のようでした。
それから綱は鬼の腕を丈夫な箱にしまい込んで、家来に家の周りを守らせます。
すると、7日目の夕方綱の叔母と名乗るおばあさんがやって来て、綱に会いたいと言うのです。
家来たちは断りますが、綱に取り次ぐと、「早くここに通せ。」と言います。
そして、おばあさんは綱に「誰も中に入れないとはどういうことか?何かあったのか?」とたずねました。
ですので綱は鬼と会った事を話すのです。
すると、おばあさんは鬼の腕をどうしても見たいと言います。
つなは「鬼がいつ取り戻しにくるかわからないので、勘弁ください。」といいますが、おばあさんがどうしてもと言うので、綱は箱を出して、蓋を開けてしまったのです。
すると、おばあさんはその腕をつかみ、鬼の姿になって天井を突き破り空に上がって行ってしまいました。
それからは、羅生門に鬼はいなくなったそうです。
羅生門の鬼の教訓
このお話の教訓は、人のうわさと思い込みは怖い。という事と、目にみえない鬼というのは誰の心にも現れる可能性があるという事です。
そもそも、この鬼が人を食べるというのは本当かうそかわからないのです。
このお話でもおばあさんや女の人に化けて人をだましたり、綱の首をつかんで空に登って行ったりはしましたが、かみついて食べようとはしなかったようです。
例えば誰かが、鬼のような見た目の人間に会ったことで、あまりの見た目のこわさに「人を食らいそうな妖怪をみた。」と言ってしまえば、うわさは広がり、人を襲った事もない怖い形相の人は人食い鬼だと思われるようになってしまうのです。
うわさというのは、とても不確かな物です。
あそこには鬼がでるとか、この人はこうだとか、人の噂というのは本当ではなくても、どこからか出てきて、そのうち消えてしまう物なのです。
このお話のような昔も、誰かの見間違いや勘違いで、鬼だの妖怪だののうわさは出てきたのかもしれません。
けれども最近は、SNSやネットが発達して、うそでも本当でも書いて出してしまうと消そうにも消えなくなるのです。
そして、事あるごとに随分と以前の事も引っ張り出され、又書かれるのです。
勝手に誰かが詳しくも知らないのに憶測で書いてしまった事が、面白おかしくその部分だけ切り取られて、本当のように取り扱われ、思い込まれて、ずっと残ってしまいます。
どんなことでも、本人にしかわからない事はたくさんあって、周りがどんなにその人に詳しく聞いても気持ちをわかろうと努力したとしても、結局は本人ではないのですから、どうがんばっても本人の気持ちと本当の事はわからないものです。
他人同士のお話は、本当の事を知りたいという気持ちは誰にでもあるものですが、本人ではない限りそれは不可能と思っておいた方がいいのかもしれません。
例えば、ある意味他人である自分の旦那が浮気をしたかもしれないとします。
すると、本当の事を知りたくて妻は調べたり追及したりしますが、本当に相手を好きであったかどうかとか、どこからが浮気であるかとか、その時相手はどう思っていたかとか、その時奥さんに対してどう思っていたかとか、本当の事は本人どうしでさえわからない事もあるのかもしれません。
妻が浮気と思い込めば何もなくても浮気という事になるのかもしれません。
人の思い込みは怖いという事です。
では、この鬼が本当に人を食べていたというお話だとして、人を食べるという事は、物語ではどういう意味があるのでしょうか?
ただ単に、お腹がすくから食べるという訳ではなさそうです。
単に、食べて命を奪うだけの意味でもなさそうです。
他にはもしかしたら、命を食べて、自分の命を伸ばすという意味もあるのでしょう。
そして、命を食べて鬼にはない人間の心を手に入れるとか?
他には人を食べてその人の才能を手に入れるとか?
人間とは程遠い見た目の鬼は、実は人間になりたかった、もしくは人間にもどりたかったのかもしれないのです。
例えば、鬼子母神というお話はたくさんの自分の子を育てるために、子供をさらって来ては食べていたという悲しいお話です。
これは、命を食べて、子供たちに命を与えるという事でしょう。
そして、もう一つの疑問が、そもそも鬼とは何なのか?という事です。
「おぬ(隠)」 目に見えないもの、この世にはあり得ないもの。という言葉が転じたという説もあるらしいのです。
鬼は一般的には人間以上の力を持つ物、人に災いをもたらす物、妖怪の一種という事です。
そうすると、人は目に見えない心の中でどうにでも鬼は作れる訳で、その理由が嫉妬か憎しみか悲しみか絶望かはわかりませんが、何かを理由に人は鬼にもなり得るという事です。
それも一種の鬼です。
鬼の心は人間の心に生まれて、人の心を食い尽くしてしまうこともあるという事でしょう。
羅生門の鬼の原作
日本の昔話です。
羅城門とも言われ、京都の南に位置する千本九条あたりに、羅城門跡があります。
『平家物語』のお話の場所を変えて作ったものとも言われている。
まとめ
このお話の教訓は、人のうわさと思い込みは怖い。という事と、目にみえない鬼というのは誰の心にも現れる可能性があるという事です。
思い出したのですが、幽霊の居そうな家に住んで、その体験を書いているライターさんが「生きている人間が一番怖い」と言っていました。
実際の人間は幽霊よりも鬼よりもわからない部分が多くて、しかも実体があるので怖いという事かもしれません。