
怒りや悲しみや悔しさをを感じる事は誰にでもあります。
でもその感情を上手に表に出すことは出来ているでしょうか?
走れメロスは教科書でも取り上げられ、よく知られているお話です。
お話の中では、メロスがとても感情豊かに書かれていて、走る間にも時々に変化する様子がよくわかります。
では、ここからは、走れメロスのあらすじを見ていく事にしましょう。
走れメロスのあらすじ
メロスは牛や馬の世話をして暮らしてきました。
そして、父も母も女房もいません。
ただ妹がいて、その妹はもうすぐ結婚をします。
ですのでメロスは花嫁の衣装やらご馳走を買いに都までやってきたのです。
メロスにはセレンティウスという、小さいときからの友達がいて、その友達は石を切り出す仕事をしています。
メロスは久しぶりにその友達を尋ねようと思っていました。
しかし、メロスが町を歩いていると、やけにひっそりとしている事に気がついたのです。
ですので、出会ったお爺さんに何があったのか、聞いてみました。
お爺さんは、「王様は、人を殺す。」と言いました。
王様は、周りの人や、臣下の事が信じられなくなって、たくさんの人を殺してしまったのです。
メロスはそれを聞いて、たいへん怒り、そのまま王城に行くと捕まってしまうのです。
そして暴君ディオニスの元に引き出されます。
ですからメロスは「人の心が信じられないのは悪徳である。」とディオニスを非難しました。
すると、ディオニスは「人の心などあてにならない。私欲の塊である。」と言うのです。
メロスは「死ぬ覚悟でここに来ているが、その前に妹に結婚式をあげさせてやりたい。3日間待ってくれないか?」と頼みました。
そして、友達のセリヌンティウスを人質として置いていき、3日目の日没までに帰って来ることを約束します。
すると、ディオニスは「身代わりの男を3日目に殺してやるのも気味がいい。人は信じられるものではないという事を見せつけてやるのだ。」と思い、メロスの提案を受け入れました。
セリヌンティウスは無言でうなづき、メロスは出発したのです。
メロスはその夜、一睡もせず走り続け、村にたどり着いたのはあくる日の午前でした。
それから急いで祝宴の席を整えると、床に倒れ伏し、眠ってしまいます。
目が覚めたのは夜で、それから花婿の家を訪れて、明日に結婚式をしてくれるよう頼みます。
しかし、説得には夜明けまでかかってしまうのです。
2日目の真昼には無事に結婚式が行われ、祝宴の中で花嫁と花婿にお祝いを告げると、メロスはひつじ小屋で眠ってしまいました。
次の朝に目が覚めたメロスは走り出しました。
村を出て、森をくぐり、「ここまで来たら、まっすぐ王城に行きつくだけだ。」とゆっくり歩きだします。
半ばまで来たところで一転、前方の川がはんらんしていたのです。
橋も流され、渡し守の姿もみえません。
そこで、メロスは覚悟を決め、川にザブンと飛び込み、泳ぎはじめます。
そして、荒れ狂う濁流の中をなんとか泳ぎ切り、対岸にたどり着くのです。
それから、すぐにまた走り出します。
すると突然目の前に、王の命令で待ち伏せしていた山賊が現れるのです。
山賊たちはメロスに襲い掛かります。
メロスは、こんぼうを奪い取り、3人を殴り倒し、相手がひるむすきに、走り去りました。
そして、また走り出しますが、疲労と太陽の熱にやられ、とうとう立ち上がれなくなります。
メロスは情けなくてくやしくて泣きました。
自分の代わりに殺されなければならない友達への申し訳なさや、暴君ディオニスの思うつぼになる事が情けなくて泣くのです。
そして、自分は友達をあざむくつもりはなかったし、これほど努力もしたんだと言い訳が頭をよぎりました。
それから、倒れ込んで眠ってしまいます。
そして、ふと気がついて目がさめると、岩の間から水が湧き出ています。
メロスはその水を一口飲み、長いため息をつき、走り出しました。
そして、地平線に陽が沈もうとするとき、刑場にたどり着いて「殺されるのは私だ!」と吊り上げられていくセリヌンティウスの両足にしがみついたのです。
メロスとセリヌンティウスは抱き合い、ディオニスは2人の様子をみて、「お前たちは私の心に勝ったのだ。」と言いました。
このお話の教訓は正直で人を信じる事の大切さの他にどんなことがあるのでしょうか?
走れメロスの教訓
このお話の教訓は、感情は我慢しないで表に出してしまう事も時には必要であるという事です。
このお話の始まりは「メロスは激怒した。」です。
メロスが暴君ディオニスに対して、怒った事がきっかけで、ディオニスは最後に人を信じてみようと思う気持ちを取り戻したのです。
町の人達は、ディオニスに殺される事に毎日おびえて、本当はどうしてこんな人殺しが起こっているか疑問に思っているだろうし、怒りを感じている人も沢山いたのです。
でも、今度は自分が殺されてしまう事になるのが恐ろしくて、心の中では怒っていても、そのことを表に表しませんでした。
そして、毎日殺されていく人の話を聞き、最初は納得できず、怒りを感じていたのに、そのうちに段々慣れてしまって、もし自分1人が怒って行動を起こしてもどうせ殺されてしまうと、あきらめて怒りを感じなかった事にして、見て見ぬふりをしてしまうのです。
私たちは、外では感情をあまり表に出さない方が、美徳であるという教育を受けてきました。
特に怒りは表さない方がいいという考えの中で育ってきたのです。
もちろん、怒りで相手を罵倒したり、暴力を振るうのは良くないですが、自分はこんなことが納得いかなくて、こういう事で怒っているんだと伝える事と、怒っているんだという感情を表に表すのは必要です。
感情は、感じているのに知らないふりをして、蓋をして表に出さないようにしてしまうと、その時はそれで済んでいるように思いますが、知らないうちに、感情がコントロールできなくなってしまう事があります。
感覚や感情が鈍くなったり、怒っているのに違う反応をしてしまったりします。
そして、突然爆発して涙が出たり、自分では考えられないような怒り方をしてしまったりするのです。
それに、人前では感情を抑える事が当たり前になってしまうと、対人関係で嫌な思いをすることがあります。
学校の中や、会社で理不尽な事を言われても、怒る感情を抑えてしまって、相手は怒っている事がわからず、同じことを繰り返すのです。
そして、ストレスが溜まって仕事を続けられなくなったりします。
例えば、先日自分の父親を亡くした友人が、自分の息子(高校生)がおじいさんが亡くなった事を受け入れられず、葬儀では納得できないような、今まで見た事がない表情をしていたそうです。
でも、最後にお別れをするときに、急に号泣しだしたそうです。
その後は、普通の様子にもどっていたのです。
その子供さんは、数日前に普通に話したおじいさんがどうしてこうなってしまったのか、理解ができなかったようです。
頭では理解ができていないけれども、感情は湧き出てくるので、素直に表に出してしまう事で、何か自分の中にストンと落ちて納得できることがあるのかもしれません。
さて、このお話を書いた太宰治は中学生の頃から小説を書いていたそうです。
走れメロスの原作
太宰治による短編小説です。
ドイツの詩人・フリードリヒ・フォン・シラーの詩を元に制作されている。
日本では太宰治が発表する以前、明治初期にシラーの詩を参照したと思われる話がいくつか存在します。
走れメロスは中学校の教科書で採用され続けている。
まとめ
走れメロスの教訓は、感情は我慢しないで表に出してしまう事も時には必要であるという事です。
接客の仕事をしていると、仕事中はいつも笑っているのが当たり前になりますが、初めの頃は表情と感情が一致せず、ストレスを感じていました。
今は慣れてしまったのか、それとも慣れたと思っているだけで、もしかしてずっとわからない所にストレスをため続けているのかもしれません。