
親というのは、身勝手なものです。
子供にとって、良い親になったり、悪い親になったりします。
最近は子供が親の犠牲になってしまう、悲しい事もよく起きています。
このような事は、実はどんな親にでもあり得るのでは、ないでしょうか?
この『三枚のお札』には、そういう可能性についての教訓が含まれています。
まず、ここからは、『三枚のお札』のあらすじを見ていく事にしましょう。
三枚のお札のあらすじ
優しいおばあさん
昔、ある寺に和尚さんと小僧さんがいました。
秋になって、小僧さんは裏山の栗を拾いに行きたくなりますが、和尚さんはおにばばあが出るからだめだと言います。
けれども、小僧さんが、どうしても行きたいと言うので、「困った事があったら、これを使いなさい。」と三枚のお札をくれました。
小僧さんが裏山に行ってみると、やさしげな顔のおばあさんが出てきて、自分の家で栗の料理をいっぱい作って食べさせてくれます。
そして、お腹がいっぱいになった小僧さんは、ぐっすり眠ってしまいました。
さて、夜中になって目が覚めた小僧さんが、おばあさんの顔を見ると、頭に角をはやし、口はこれでもかと言うほどさけていたのです。
小僧さんは、おにばばあだ!何とかして早く逃げないといけないと思います。
そして、小僧さんは「おら、便所に行きたい。」と言うので、おにばばあは小僧さんの腰に縄をくくりつけて便所に行かせます。
しばらくしておにばばあは、「小僧、まだか?」と縄をひっぱったのです。
すると、小僧さんは「まあだ、まだ。」と言いながら、腰の縄をほどいて便所の柱にくくりつけて、「お願いですからおれの代わりに返事をしてくだされ。」といいおいて、便所の窓から逃げ出しました。
すると、またしばらくして、おにばばあが「小僧、まだか?」と引っ張るとと、便所の神様が「まあだ、もうちょっと。」と返事をしたのです。
おにばばあは、小僧さんの便所があんまり長いので、「小僧、早く出てこい!」と言って、縄をおもいっきり引っ張ると、便所の柱がスポッと抜けておにばばあのひたいに飛んできました。
なので、おにばばあは「あのやろう!逃げたな!」と言うと、「待てー!」と追いかけて来ました。
三枚のお札
そして、小僧さんの方は、転がるように逃げましたが、おにばばあがあまりに走るのが早いものですから、すぐにつかまりそうになってしまいます。
そこで、小僧さんは、和尚さんにもらったお札を出して「大きな砂山、出ろ!」と後ろの方に放ったのです。
そして、おにばばあが、その砂山を登ろうとすると、ズルズルとすべりました。
しかし、おにばばあはとうとう砂山を乗り越えて、また追いついてきたのです。
ですので、小僧さんはもう一枚お札をだして、「すごく大きな川、出ろ!」と後ろの方に放ります。
しかし、おにばばあは、その川に飛び込んで、ジャブジャブ渡ってしまったのです。
今度は小僧さんは、最後のお札を出して、「大火事、起これ!」と言って後ろに投げます。
そうすると、そこら中が火の海になりましたが、おにばばあは、ふうーっ!と息を吹きかけて、火の中を通り抜け、追いかけてきたのです。
ようやく、お寺についた小僧さんは、「おにばばあが追いかけてきた!」と言って戸をたたきます。
しかし、和尚さんは、「待て待て。」と言いながら、きちんと身支度をしてから戸を開けるのです。
そして、和尚さんは「ここに入っていなさい。」と囲炉裏の近くの戸棚に小僧さんをかくします。
それから和尚さんは何もなかったように、お餅を焼いていました。
そこへおにばばあがやって来て、「小僧を出せ!」と言い出します。
和尚さんは「まだ帰っていない。」と知らんぷりをして、餅をひっくり返していました。
それを見たおにばばあは「おら、餅が大好きだ。おらにもごちそうしてくれ。」とねだったのです。
ですので、和尚さんは「餅ならいくらでもご馳走するから、俺と化けくらべをしないか?」といいます。
すると、おにばばあは、「おらは何にでも化けられるぞ。」といいました。
そして、和尚さんが「タカズク、タカズク、」と唱えると、おにばばあは、どんどん伸びて、大きくなったのです。
ですので、和尚さんは今度は「ヒクズク、ヒクズク、」と唱えます。
すると、どんどん小さくなって豆粒くらいなったおに婆をもちではさんで食べてしまいました。
おしまい。
さて、この『三枚のお札』には、どのような教訓が含まれているのでしょうか?
三枚のお札の教訓
教訓1
『三枚のお札』の教訓は、親はもしかしたら、子供にとって、良い存在ではなくなることもあり得る。という事です。
このお話の中では、裏山という比較的近い場所で、おにばばあが出るかもしれないのです。
最初は優しいおばあさんが、夜中になると怖い顔のおにばばあになってしまいました。
そして、自分の元から逃げると、ものすごい執着で追いかけてきます。
このおにばばあは子供と近い存在で、優しくなったり、怖くなったりする、親の事を表しているのでしょう。
それぞれのお札で出した物にも意味があります。
● その執着心は砂と同じで払い落そうとも、全部落とせない。
● 大きな川(三途の川)を超えてくるように、死んでしまっても忘れられない。
● 大火事と同じで全部焼けて何もなくなったと思っても、土の中深くには、生きているものもある。
親は、子供にものすごい執着心があるので、どこまでも追いかけて、いう事をきかすのが当たり前だと思ってしまう事があります。
要するに親はあまりにも子供に執着しすぎると、子供を苦しめてしまうこともあるということです。
子供といっても、ひとりの人間で、決して親の所有物ではないのです。
そして、すべて親の思い通りにさせようとするのは間違いで、力や言葉で無理やりいう事をきかすことはできません。
例えば、あまりにも危ない事をしたとかで、つい、怒って手が出てしまったりすることが、親なら誰にでもあるとおもいます。
でも、その時の子供の痛みと親の心の痛みは一生消えないのです。
ですので、しかるとか、注意するのは必要でしかたないですが、気持ちに任せて怒る、怒鳴るなどは、恐怖が記憶に残るだけで、子供は何をしかられているのかわからず、なんの解決にもならないのです。
そして、小さな子供でも親が困っている時、悲しんでいる時は、きちんと感じ取る事が出来るので、大事な事がわかるまで、その都度何度も言い聞かせて、あとは、親が子供を信じてあげる事しかできません。
ずっと、子供に付いて歩くわけにはいかないのです。
他にも、あまりにも真面目で、子育てを完璧にしようとしすぎて、思う通りに行かないのを自分のせいだと思って落ち込んだりする事はよくあります。
それに、いろんなストレスで子供にあたって、それでも執着して、子供を手放せず、結局は悲しい結末になったり、することがあります。
そんなことが、できれば少なくなるように、親は子供にとって、良い存在ではなくなってしまう可能性もあるという事を知っていることは大切です。
教訓2
そうして、もう一つの教訓は、急かされてたり、ピンチに立った時ほど、落ち着いて、対処しなければならないという事です。
急な決断を迫られたり、いつもより、正確に急いで処理しなければならない事があった場合ほど、一度立ち止まって深呼吸をして、まず自分は今一番に何をすべきなのかを、落ち着いて考えなければならないのです。
人は、急かされたり、強い口調で言われたり、ピンチに立たされた時、つい焦って自分のペースを崩してしまい、また失敗を重ねてしまうという事があります。
そういう時程、焦らず、自分のペースを崩すことなく落ち着かなければなりません。
このお話の中では、小僧さんが、扉の外で開けてくれと焦っているのですが、和尚さんは焦らず、身支度を整えて対応します。
和尚さんまであせっていたら、おに婆が来た時に何もなかったように装って、ばけ比べなどできなかったでしょう。
急いだり、焦ったり、ピンチに立たされた時ほど、立ち止まって深呼吸をして、今何をするべきかを落ち着いて考える事が大事なのです。
三枚のお札の原作
このお話は秋田県、青森県、などの地方に伝わる昔話です。
お札などの何か力のある物を投げて、逃げるお話はたくさん残っているようです。
こわいお話ですが、便所の神様が代わりに返事をしたり、柱がおにばばあのひたいに飛んできたり、非常にテンポのあるお話でこどもにはとても喜ばれます。
まとめ
この『三枚のお札』のお話の教訓は、親はもしかしたら、子供にとって良い存在では、なくなることがある。という事でした。
世の中の子供を大事に育てるのは、大人の義務ですが、子供を所有物にする権利はありません。
でも、特に小さな子供は自分の親しか知らないので、親に間違った事をされても、それが当たり前と思って、育ってしまうのです。
そして、子育ては簡単なものではありません。
人間をひとり育てるのですから、簡単な訳がないのです。
子育てで悩まない人なんて誰もいません。
他人から強い口調で責められたときの対処方法は逃げるが勝ちですね。
そうですね。
強い口調で責める人は、相手が怖がって自分のいう通りになると習慣的に思っている場合が多いように思います。
一方、強い口調で責められた人は、パニックになってつい相手のいう事を聞いてしまったりします。
するとまた、責める人は弱そうな人を責めると、自分の思い通りになると思い込んでしまうのです。
そういう人からは、うまく逃げられるなら、逃げてから落ち着いて対処法を考えられればいいですね。